Story of the 47 LOYAL SAMURAI〜Chushingura〜

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 今を去ること約310年の昔(1701年)日本の歴史の中でも平和な元禄時代のことでした。
 その時代は、武士によって日本中を支配し、政権の座に君臨していた徳川5代将軍綱吉の世でありました。当時天皇は、日本の西に位置する京都に住んでおり、政治には関与していませんでした。
 徳川家は国の政治を一手に動かしていましたが、日本の歴史において、全ての統治者たちは、決して皇室に対する尊敬の念を忘れたことはなかったのです。
 新年を迎えて徳川家は例年のとおり、京都の天皇に使節を送り、新年のあいさつのしるしとして、多額の小判や、そのほかいろいろな贈り物をするのが、ならわしとなっていました。
 3月には、これに対し、天皇の方から江戸(現在の東京)への使節を派遣し、徳川家に対し感謝の意を表明したのです。
 この場合、徳川家は、ならわしとして、ある大名とか領主を天皇の使節が江戸に滞在している間の接待役に任命しました。
 しかし、大名というものは、元来武士であり戦闘員ですから、いくさの方法はよく知っていても、使節をどのように接待するかという礼儀や、むつかしい作法については精通していませんでしたから、彼らの指南役が同時に任命されたのです。それは、徳川の治世のもとで確立された一つのならわしでした。
 元禄14年(1701年)に天皇の使節たち(勅使・院使)が京都から江戸へ到着したのは、3月11日でした。
 公式接待役として播磨国(現在の兵庫県)赤穂の領主浅野内匠頭が任命されました。
 そして高家筆頭すなわち将軍家の儀典長である吉良上野介が指南役に任命されました。

 儀式は平穏に終わろうとしていました。しかし、その3日目にあたる3月14日、公式接待役である浅野内匠頭と、そのアドバイザーである吉良との間に口論があり、そして、浅野内匠頭は突然刀を抜いて吉良を襲ったのです。
 その日は、将軍綱吉が天皇の使節に、彼みずからが謝意を表す非常に重要な日でありました。
 その事件は将軍が謝意を表すこととなっている公的儀式の間(白書院)に通じる廊下(松の廊下)でおこりました。
 将軍綱吉は非常に怒り、「一度江戸城中で、ケンカがおきると、そのケンカに関係した双方が罰せられねばならない。」というきまりを忘れてしまいました。吉良に切りつけた浅野は、その日のうちに切腹を命じられました。しかし、傷ついた吉良は罰せられることなくすみ、逆に同情され、傷が治ったら再び彼の職務に専念するよう、温かくも勇気づけられたのです。
 そのケンカの理由は、今日に至るも知られていません。では何がその理由なのでしょうか。一説によると、「浅野に対する吉良の偽りの指導により、浅野はさまざまな誤りをおかしたことが、結果ケンカになったと言われています。それは浅野が吉良に、指導を願ったとき、吉良に贈った贈り物が十分でなかった。吉良は欲が深かったため、それを不愉快に感じたからです。」とも言われています。

殿中刃傷 -Asano slashes Kira in the Yedo Castle-
殿中刃傷 -Asano slashes Kira in the Yedo Castle.-

 浅野が切腹を申し渡された後、彼の家臣たちは徳川家により、その時代のきまりに従って、今まで住んでいた地から追い払われることになりました。
 4月16日徳川の使者が赤穂(兵庫県)におもむき城を没収したのです。
 他方、城代家老の大石内蔵助は平和的に城を徳川家に明け渡し、そして浅野内匠頭の弟 大学により、主君の家を再興することを、徳川幕府によって許可してもらうよう、将軍に対し訴える決心をしました。
幾人かの家臣は、徳川の使者に対し、大切な城を枕に戦うことを選びました。
 幾人かの者は、主君のふるまいがどうであれ、家臣と城を捨て、彼自身の生命をも投げ出した主君を想い、江戸に行き吉良を殺すべきであるという意見でした。
 早駕籠赤穂に飛ぶ -Asano's servants in Edo hury to AKo to inform other members of  the incident.-
早駕籠赤穂に飛ぶ
-Asano's servants in Edo hury to AKo to inform
other members of the incident.
 城地赤穂の驚愕、上下騒動-Everyone in Ako was astonished at the news from Edo and fell into great confusion.
城地赤穂の驚愕、上下騒動
-Everyone in Ako was astonished at the news from Edo
and fell into great confusion.

 その時代は平和な時代ではありましたが、侍とか武士の間では「もし主君が、はずかしめられたら、その家臣は忠義により主君のため死なねばならない。」そして幾人かの者は、不法な行動を起こすことなく、(その裁きに対し)非難することを考えました。
 そしてまた「主君がたとえ主君らしくない行動をとっても、家臣はより家臣らしくなければならない。」という考えが存在していました。この考えは、武士道であるとか侍精進と呼ばれていました。

 大石は、家臣たちの様々な意見や、強硬派の言い分を調整し、まず第一に、徳川家に対し、亡き主君の弟を再び徳川家の家臣となるよう、たとえ長期間かかっても訴えることとし、第二に武士の面目を保ち、ケンカ両成敗が達成されるよう、主君が切りつけた吉良に何らかの処分が下されるよう願ったのです。
 そして大石は、城を徳川家に明け渡す間に、この2つのことを心に秘め、彼と同意見である同志を選び、このことの秘密を守るよう、彼ら同志と同意事項を確かめあいました。
 そして京都の近くのある場所(山科)へ移り、周囲の情勢の進展をじっくりと見極めたのです。
 
 しかし、吉良は隠居してしまい、主君の弟は徳川家の命により、広島にある親類(浅野本家)にあずけられてしまいます。
 このことは、吉良が処罰されることもなく浅野家の再興も許されないということを意味するものでした。
 こうして浅野家、再興の望みは完全に断たれてしまいました。ここで彼らに残された唯一のなすべきこと、それは吉良を討ち取ることでした。
 大石は、京都の近くに住んでいる同志を集め、最終的に、吉良を打ち取るための話し合いをおこなったのです。
 1702年10月7日大石は同志とともに江戸へ下って行きました。
彼らは、江戸の商人や医者風の者に変装し、吉良の屋敷を偵察したのですが、彼らの敵吉良が屋敷にいるかどうか容易には、わかりませんでした。そのため、吉良の屋敷の討ち入りする日がすぐには設定できなかったのです。
内蔵助遊興-Oishi pretends to do nothing but play around in Kyoto during spying on movements of the enemy.
内蔵助遊興
-Oishi pretends to do nothing but play around in Kyoto
during spying on movements of the enemy.
 
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  義士討ち入り -47 samurai attack Kira's mansion. 

 幸運にも、たまたま吉良の屋敷で茶会が開催され、その日が12月14日であることを知りました。
 ついに、降りつもる雪も止んだ真夜中、47人の忠義な侍たちは二手に分かれ、表門と裏門から屋敷に侵入したのです。
 吉良の家臣たちは吉良をまもるため反撃をしましたが、47人の忠義な侍たちには全くかないませんでした。
 しかし47人の侍たちは、なかなか吉良の居場所を見つけだすことができませんでした。屋敷の中を隅から隅まで探したあと、ついに物置の中に隠れている吉良を見つけだし、討ち取ったのでした。
 そのあと、彼らは、吉良の屋敷から隅田川にそって南へ下り永代橋を渡り、築地・新橋そして札の辻を歩いて通り、泉岳寺に到着しました。
 そこで吉良の首級を墓前にささげ、「私たちの主君、どうかこの首級で、あなたのご無念の気持ちをはらして下さい。」と涙ながらに討ち入りの結果を報告したのでした。
 引き揚げの途中、大石は同志の2人(吉田忠左衛門・冨森助右衛門)を彼らの代表として、徳川家の大目付(仙石伯耆守)のもとへ行かせ、自訴したのです。
 1年前の浅野の刃傷について、あれ程怒った綱吉は、法で禁じられている「集団で相手を殺した行為」にもかかわらず、彼らの深い忠義のおこないに心から感銘をうけたのです。
 彼らは、幕府の命により、17名は細川家へ、10名は松平家へ、10名は毛利家へ、そして9名は水野家へそれぞれ別々にあずけられました。
 これは、彼らをさばくため、しばらくの時間が必要であると考えたための措置でした。

 一方綱吉は、老中と奉行たちに、彼らを裁くため、意見を述べるよう命じました。彼らの間では次の2つの意見に分かれました。
 ※彼らは武士道の忠義を崇高にも達成したのだから罪は免じられるべきである。
 ※たとえ彼らが武士の立派な見本であろうとも、法に従って罰せられるべきである。
 結局、後者の意見が直裁され、すべてに決着をつけたのです。
 人々に大変残念がられながら、彼らは全員、4家の大名屋敷で同時に切腹をしました。時に元禄16年(1703年)2月4日のことでした。
 世の人々は、風に舞い散る満開の桜の花にたとえながら47人の忠義な侍たちをいたんだのです。
 人々は、彼らの真の忠節を武士の鑑であると尊敬し、ほめたたえました。
 47人の忠義の行いは、間もなくお芝居となり、たくさんの人々が連れそってそれを見に行きました。

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 大石内蔵助良雄切腹
- Oishi commits SEPPUKU.
 将軍綱吉は、この事件を本名を使いながら、あるがままに上演することを原則的に禁止しました。
 しかし彼らが切腹してから45年後に、『仮名手本忠臣蔵』(47人の世のお手本となる忠義な家臣たち)と題する劇が書かれました。 この物語は、足利治世の事件に似せられており、本名を全く使わない、歴史的事実とはかなり違ったものでした。
 47人の忠義な侍の物語は、出版物、映画、テレビ、劇などあらゆるメディアにより、日本の人々の心を深く打つのです。
 だからこそ、今日でも忠義な精神をたたえる人々が、47義士の墓所を間断なく訪れるのです。
   

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